闇のなかの光

どんな闇の中にも光はある。私の治療は8か月を過ぎる頃から良くなり、ドラッグ・フリーへと向かっていった。プロラクチンは再検査されることなく、むしろ精神症状の治療が重点であった。私が闇の中に光を見出すことができたのは、忘れもしない夏の日、すばらしい出会いがあったことが大きい。その人はずいぶん長く忘れていた創造することの楽しさを教えてくれた。芸術は人の心を救うのは、本当だと思う。そこから上昇気流に乗るように病院通いからは解放され、業績も上がっていった。そして皮肉なことに、夫と私が一緒にいた場所にこの3年後、戻ることになる。

闇の中

「プロラクチンが高いですね」と言われたのは、公私ともにどん底であった30代半ば。やっとつかんだ常勤職は業務もハードであったが、人間関係がギスギスしており、スーパーパワハラ上司が存在。私が単身赴任をすることで、心身の負担はさらに強まった。どんなに苦しい思いで帰ってきても、お弁当を作ってあげても、夫の表情はしだいに硬くなっていった。私は彼が不在の間の舅の介護も、仕事の苦しみも聞いてあげて、支えてきたつもりだったけれど、同時にままならぬ自分の人生ゆえに彼を責め続けたように思う。それは確かに悪いことであった。生理もとまり、ルボックス漢方薬で苦しい治療にいる最中、「僕は自由になりたい」「新しい人生を歩みたい」「そんな風に喉に刀を突きつけるように、病気で迫るな」と言い続ける元夫は鬼のようでしかなかった。愛情がなくなるということは、こんなにも残酷なことかと悟った。

今、彼は新しい配偶者を得て、小学生の子供もおり、業績をあげ、幸せの最中にいるらしい。私の埋められなかったところ、至らなかったところ、私が傷つけてしまった心を癒す人が現れたことに感謝するとともに、どうか幸せであってほしいと願う。しかし、私はこの深い傷に長年、苦しむことになった。

それは30代から始まった

生理が終わっても、胸が張ることがつづき、ついに白い分泌物が出てしまったのが30代初でした。その時に血液検査をしていればよかったのでしょうが、近くに乳がんの名医がおり、精密検査をして、結果はシロ。乳腺炎という判断でした。もともとエキセントリックな性格ではありましたが、この頃から気分のアップダウンが強くなっていったように思います。

当時、非常勤職であった私は常勤職にどうしてもなりたかった。それは夫と別居をせずに済むということでもありました。厳しい道のりには業績を重ねるしかなく、当時は女性が常勤職を持つことも、今ほどの理解はありませんでした。ストレスはたまるばかりだったと思います。今思えば誰かに執着しすぎること、ストレスを解消することが下手なこと、無理をしてしまう性格は、この病の発火点になっているのかもしれません。

プロラクチノーマと私

健康を損ないつつ、愛するロバへの詩をつづったヒメーネス作、『プラテーロと私』は幼い頃からの私の愛読書。残念ながら私に与えられたのは、銀色の、やわらかな毛並みのロバではなく、プロラクチノーマという脳下垂体にできた1cm弱の腫瘍でした。この病、不妊治療をされている若い方の記事がほとんど。お子さんをさずかった記事には、こちらもうれしくなりますが・・・果たして更年期に向かってはどうなるのか、また原因不明ともされるこの病に何か手がかりはないか、ブログをはじめてみることにしました。