誰に、どこまで告げるか

投薬を選ぶということは、働きながらの治療を選ぶということになる。誰にどの程度

、告げるのかについては悩ましかったが、副作用があまりに激しく、誤解を生むよりは、むしろ同僚や部下に病のこと、どのように治療していくのかを明快に伝えることにした。コンフェッションと同時に部下の栄転が決まり、ある意味、最悪のタイミングとなったが、信用できる人々に栄転する部下のフォローを頼むこととした。反応はさまざま。もっとも理解がないのは50代以上の男性。

今まで人に頼りにされることはあっても、頼りにしたり、泣いたりはしなかった。今回気づいたのは、頼って、泣いてしまっても、受け入れてくれる人は多数おり、本当にありがたいことと思う。もし去っていた人と関係が続いていたとして、その人だけに私は頼ってしまったことだろう。もしかしたら一人で解決できない、もっと重い病が与えられたかもしれない。私は一人で、しかし、多くの支えてくれる人々とともに生きるのだ。

カバサールの副作用

あまりの検査続きにセカンドオピニオンに出かける気力も残っておらず、まずは第一選択肢であるカバサールを飲み始めることにした。副作用が少ない、まったく無い人もいるらしいが、私は恐ろしいほど副作用が出た。飲んだ翌日から吐き気とふらつき、食欲不振でまったく起き上がることができない。

もしこれから飲む人がいれば、経口補水液を用意しておくに限る。誰も面倒を見てくれる人もおらず、薬を飲む前はまったく健康だったのに、かえって薬で死ぬのではないかと思うほど辛い症状だった。今までの薬はもっとすさまじいらしいが、信じられない。飲んだ5日後も、まだグラグラする。

医師によれば、2-3年(閉経が近いからか)とのことだが、これがいったいいつまで続くのか、そして本当に治るのか、暗澹たる気分のままにいる。

プロラクチノーマ初期症状

プロラクチノーマの初期症状は女性の場合、無月経、男性の場合は視覚異常らしい。私の場合は、1か月間、生理が止まらなかった。ちょうどプラセンタサプリを飲み始めたこともあり、その副作用に生理が頻発的に起こることや、胸が張ることがネットの記事にあり、最初は気にしなかったが、さすがに1か月近く続くので念のため婦人科に出かけていった。

検査は癌検診から血液検査まで続いたが、ぼんやりと思い出した30代に医師に言われた「プロラクチンが高いですね」の台詞を伝えた。ありがたいことに、医師はプロラクチン値の調査を追加で依頼し、そこで140超え(通常は3~30)という異常値であることが告げられた。造影剤を使ったMRIで、1㎝弱の脳下垂体腫瘍が見つかった。

無月経だけがどうやらこの症状の始まりではなく、無排卵月経であっても、出産年齢を過ぎていれば婦人科に行くこともない人が多いと思うが、調べてもらうに越したことはない。40代を過ぎれば、誰もが何かを抱える可能性が高いのだから。

どれほど山を越えたらよいのだろう

苦しい介護の日々は2016年2月、ようやく終わりを告げる。母が施設に入ることになった。月収の1/3もとられる介護費がきつく、なぜここまで母に搾取されねばいけないのかわからない日々だが、それでも5年間の地獄よりはましだ。2016年は母から解放されたこともあり、様々な仕事をすることができ、断っていた場所にも出かけることができた。同時に良い感じになった人もできたが、夏に母は入院してしまった。良い感じになった人からは「あなたの言葉は自分のために言っている」と言われ、さらにはお願いした仕事も「それほどまでやる仕事ではない、同僚のギャラアップをしろ」と言われたあげく、すぐばれるような嘘をつかれ、納期を大幅に遅れるというひどい結果に終わったが、最後には謝罪すらこなかった。それでもまだこれからの人でもあり、仕事で大切な人を大切にできるように、健やかにがんばってほしいとのメッセージは最後に送ったが、果たして彼の心に届いたのだろうか。ここまで来て、ようやく私が悟ったことは、私が心の安定を得なければ、永遠に安らぎはやってこないことだった。

介護の日々

2011年からの5年間ほど、この世の地獄をみた期間はない。母は勝手にシングルマザーとなり、家は貧しく、母は厳しいばかりで、しかも他人の愚痴と悪口だけの人だった。私の幼年時代は決して良い記憶がない。ただただ母の顔色をうかがい、周りの恵まれた人々に比べて自分は生きている価値すらないと思ったことは何度あっただろう。そんな母に押し切られる形で同居を始めたが、母の立てる生活音に耐えられず、さらにどんなに疲れて帰ろうが夜中に夢遊病者のように起こされる、倒れる、入院、忘れ物が増えてそのたびに警察に取りに行くことが増えた。心底疲れ、母を捨てることしか考えられず、そしてその自分の考えの非道さに苛まれる日々が5年間、続くことになった。

光からまた闇へー母の介護の始まりー

3年ぶりに戻ってきた地は、本当に心地よく、うれしく、またやりがいのある場所だった。もちろん多少の不満はあったが、それはどこの職場でもあることだろう。しかし仕事は予想以上にハードで、1年目に喉の疾患で入院し、2年目に自律神経失調症にさいなまれることになった。しかし、偶然、職場の近くの鍼灸に出会い、1月に1回、通ったところ、ほとんど症状が出ずにおさまっていった。私はようやく光に包まれつつあったが、2011年3月11日、ここで闇に転落する。

この災害が多くの人々に言い尽くせぬ苦しみを与えたことは言うまでもない。私はこの災害が遠くに住んでいた母の認知症に気づくきっかけとなった。大地震であるにもかかわらず、母から連絡がない。そして母は私が一緒に住もうと呼んでくれた、と繰り返しはじめたのだった。

どんなに強くとも女性の体は違う

治療が終わった後にも、頭に血がのぼるような、喉がつまるような、居ても立ってもいられない自律神経失調症のようなことが続いた。今も時々あるのだが、決まって元夫のさげすむような表情や言葉がよみがえる。同時に首のこりがひどく、整形外科にも通ったが、解決することはなかった。しかし闇の中に、必ず光はある。偶然に通った鍼が案外よいのではないかというカンをつかんだ。

どんなに強くとも、女性の体は男性より弱い。男性と同じように働き、同じようなメンタルで仕事を強制されれば、まず弱るのは生殖器だ。あなたの横でバリバリ働いている女性も、何かの疾患をかかえ、それでもがんばっているのかもしれない。

どうか若い世代は、女性の体が決して強くはないこと、同情は必要ないけれど理解は必要なこと、女性も30代を過ぎたら自分の体を自覚し、お互いに思いやりをもって無理なく働いていける社会がやってきてほしい。